ABOUT

昔からあるけど、新しい。
ものづくりの町・燕から、
爪ヤスリを、
全国へ、世界へ発信。

(有)吉田ヤスリ製作所は、江戸時代から続く新潟県燕市の金属加工技術を現在まで受け継ぎ、シンプルで使いやすく高品質な爪ヤスリを製造しています。
弊社がある新潟県燕市は、県のほぼ中央に位置しています。燕の地場産業は江戸時代初期、和釘つくりから始まったとされています。
和釘つくりで培われた金属加工技術は、その後ヤスリや銅器、きせるなどの日用生活品に波及しました。
その金属加工技術は職人たちにより現在に至るまで脈々と受け継がれ、発展し“Made in TSUBAME”は全国的にも有名となりました。

はじめまして、
吉田ヤスリ製作所です。

始まりは明治後期(1900年)頃。当時は鉄などを削る工業用ヤスリの製造をし、昭和30年(1955年)より爪ヤスリの製造を始めました。その後昭和44年(1970年)に有限会社吉田ヤスリ製作所として設立し、現在に至ります。ヤスリ製造を始めてから約120年の歴史ある会社です。
オリジナルブランド「YOSHIDA YASURI」では、伝統の技術をそのままに、使う人の用途に応じた、誰もが使いやすい爪ヤスリを作ることを目指しています。
職人が一本一本手作業で製造した爪ヤスリの使い心地をぜひ手に取ってご体感ください。

私たちのこれまでと
これからについて。

( text:吉田尚史 )

 工場の広さは約50平米ほど、その空間では「がががが」と一定のリズムで金属の削られる音が鳴り響く。かつてはたくさんの職人がいたこの場所に、今では2人の親子が並んでいる。有限会社吉田ヤスリ製作所のある新潟県燕市は、日本有数の金属加工のまちとして有名だ。

 金属加工のまち燕の始まりは江戸時代まで遡る。日本家屋に用いられる<和釘>の製造で一大産地として有名になり、和釘つくりで培われた技術を継承・発展させ、和釘以外にヤスリやキセル、銅器など家庭生活用品を主体とした金物に広く派生していった。それらの技術は今もなお燕の地に根付き、日本有数の金属加工産業地帯となった。吉田ヤスリ製作所は燕の地で120年にわたりヤスリの製造を続けている。

 ヤスリ産業の最盛期は昭和12年頃、満州事変や支那事変など軍事需要が大きくなり、年間生産4000 万本、燕市だけで業者100 社、従業員も600 人以上であった。しかし軍事産業の消滅とともに工業用ヤスリの需要は激減することとなる。吉田ヤスリ製作所も戦後、工業ヤスリから爪ヤスリへと業態を変更している。現在燕市には当社を含め、爪ヤスリ製造メーカーが2 社、工業用ヤスリ製造メーカーが1 社のみとなっている。

7代目 吉田 実

 吉田ヤスリ製作所は自宅兼工場として構えられており、工場で爪ヤスリを製造する作業音は、もはや生活の一部であった。幼い頃から両親の爪ヤスリ製造を身近に見てきたこともあり「いずれは自分も跡を継ぐのだろうな」と思うのはごく自然なことだったという。高校を卒業後家業に入り、爪ヤスリ製造一筋40年以上となる。
 吉田ヤスリ製作所の基本的な業態はOEMである。ステンレス製の爪ヤスリの専門メーカーは全国的にもほとんどなく、当社にはたくさんの注文が舞い込んでいた。国内向けの製造はもちろんのこと、海外への輸出の引き合いなども多くあったことから、両親の他にも4人の職人が在籍し、爪ヤスリの目立て機にかぶりつき、製造を行う日々であった。

「日々の研鑽と、挑戦の連続こそが伝統をつなぐ」

 大量生産できる爪ヤスリはシンプルな作りのものが多い。ただそれだけを作り続けていては、技術は今以上の発展を遂げない、だからこそ新しいものへの挑戦を怠ることはなかった。新しいものへの挑戦はトライアンドエラーの連続である。
 この頃、ステンレスの表面を溶解させて仕上げるエッチングという技法が世に出始め、これによりヤスリの目立てでは出来ない、より細かなヤスリ目を施すことが出来るようになった。表側を昔ながらのヤスリ目立てにして、裏側をエッチング、という爪ヤスリの製造は困難を極めた。6代目の吉田仙七は、その取り組みをみて「実のつくるものは“すこ”(燕の方言、不良品を意味する)が多すぎる」と苦言を呈することもあった。ただそれでも、挑戦することをあきらめなかった。
 ステンレス材の種類、目立てのバランスなどの試行錯誤を繰り返し、その結果、ヤスリ目立て×エッチングの爪ヤスリは安定生産に至った。この爪ヤスリは今も吉田ヤスリ製作所で年間8万本近く製造されており、全国どこを探しても、誰にも真似することのできない製品となった。

 在籍していた職人の高齢化、最後まで目立てを続けた先代、仙七も80歳で工場を去った。2007年頃からの約10年間は、爪ヤスリの目立てを行うのは父だけになった。職人の数が少なくなれば、当然ヤスリの生産量は少なくなる。大量生産の形態は徐々に縮小せざるを得なくなったが、一方でヤスリ目立ての技術を総結集させた、新しい爪ヤスリの形を探り続けた。

 どうすればより滑らかに削れるようになるのか。もっと使いやすく、爪ヤスリのクオリティを上げていかなくてはならない。そこには職人としての矜持がある。寡黙にもくもくと、目立て機にかぶりつき、爪ヤスリを作り続ける。

8代目 吉田 尚史

 2017年、30歳でそれまで勤めた医療福祉関係の仕事を退職し、家業に入った。いずれは家業を継ぐ、とはほとんど考えてはいなかったが、子供のころから聞き慣れ親しんだヤスリの目立ての音、父同様家業を継ぐことは、自然な流れだったのかもしれない。また、父である実が60歳になったのも一つのきっかけではあった。仕事柄若くして病に倒れる人を多くみてきたこともあり「父が元気なうちに、技術を学びたい。」そう思った。

 燕の地場産業は完全な分業である。爪ヤスリを例にとると、プレス(型抜)→バリ取り研磨→表面研磨→洗い→目立て、といった流れである。それぞれを専門とした職人がいて、一つの品物を作るのにぐるぐると燕三条地域を駆け巡る。そういった燕三条の地場産業の形態を知り、実際に足を運ぶことが爪ヤスリ職人の道のスタートであった。

「職人」としての父

 父はとても寡黙な人でそれは仕事であれば尚更であった。こちらから質問しなければ答えてはくれないし、答えてくれたとしてもそれは非常に感覚的なものだった。
 ヤスリの製造は「目で見て、耳で聞き、目立て機の振動で感じ取る」それ繰り返し、丁度よいヤスリ目の具合を探り続ける作業である。「どれかがズレれば全てのバランスが狂う」と父は言い、事も無げに父は作業を進める。家業に入り4年経つが、その感覚を身につけていくには当然長年の経験と積み重ねが必要である。親子2代、小さな工場のヤスリ目立て機に2人は並び、「がががが」と一定のリズムで音が鳴り響く。

吉田ヤスリ製作所のこれからの在り方

 父は息子が跡を継ぐとは考えておらず、働けるまで働いて、幕を引くつもりだったらしい。ただ家業を継いでくれるというのは、嬉しい半面、もう自分だけの問題ではなくなるし、これから会社をどんな方向に持っていくか、そして未来につなげられる形にしなければならない、そう改めて考えるようになった。

[ YOSHIDA YASURI ]

 これまではOEMの注文をこなすだけで精一杯だった。ありがたいことに爪ヤスリの注文は絶えず今に至るが、それでも社会情勢の波にあおりを食うことも度々あった。そのせいで職人に辞めてもらうこともあった。

 これからは自社でつくり、そして自社で売るところまでをパッケージに、経営していかなくてはいけない。息子が家業に入ったことで時間的な余裕も生まれ、ヤスリの目立て時間にまわすことで、オリジナル製品に取り組むことが出来た。他に真似できないステンレス製爪ヤスリの目立て技術。その技術を集約させた、吉田ヤスリ製作所の名を冠したオリジナルの爪ヤスリを作らなければならない、という思いがずっとあった。そして、2019年。オリジナルブランド「YOSIDA YASURI」が始まった。

これから

YOSHIDA YASURIは主にオンライン販売の形態をとっている。販売して約1年経つが、たくさんのお客様に高い評価を頂くことが出来ている。レビューに加え、たくさんの意見を聞くこともでき、それらを製品開発にも活かしていく予定だ。OEMではないオリジナルのものづくりは、そのものの評価をダイレクトにお客様から頂くことが出来る。ものづくりの先の、それを使う方々をきちんとイメージすることを忘れずに、これからも爪ヤスリを作り続けていく。

概要

商号
有限会社吉田ヤスリ製作所
創業
1900年
法人登記
1970年(昭和44年)4月15日
事業の内容
爪ヤスリ製造
資本金
300万円
社員数
代表取締役
吉田 実
住所
〒959-1244
新潟県燕市中央通り2丁目1-12-2
TEL
0256-62-3664
FAX
0256-62-4151
主取引銀行
第四北越銀行
URL
yoshidayasuri.com
Email
yoshidayasuri_tsubame@ybb.ne.jp

沿革

明治後期
1900年
新潟県燕市にて工業用ヤスリの製造を始める
同時期にヤスリ目立て機を導入する
1955年
工業用ヤスリから爪ヤスリ製造へ転換
1960年
工場の改修工事
1970年
有限会社吉田ヤスリ製作所として法人化
1995年
5代目吉田仙七から6代目吉田実へ代替わり
2019年
オリジナルブランド[YOSHIDA YASURI]発表
2020年
[YOSHIDA YASURI]商標登録